・短いステイトメント(「質問する」のために)

なにかをつくるという現場には様々な言葉が介在する。作り手はまず意識的に自分がなにをしているのかを言葉にし、見るものは自分が見たものをまずは言葉にする。そうしたものを集めてだれかに伝えようとするものもまたそこに言葉を用い、ぼくたちはつまるところ言葉と実践のあいだで考えている。

そしてぼくらは言葉を通じてものごとの深さに到達するんだと思う。少なからずだれかの言葉に導かれてものごとの理解へとたどり着いた経験がぼくらにはあるはずだ。

だけれども現場の言葉はなかなか保存されない。日々の雑事のなかで消えゆく、思索の言葉たちを拾い上げてみたいと思う。いろいろと聞いてみたいと思う。ぼくにはいまそういうひとたちがたくさんいる。たぶんそのだれかの言葉は、ほかのだれかを導くなにかしらの道しるべになるかもしれない。ぼくもそうした言葉に出会うことを求めている。(8/2009)


・編集について

たとえば雑誌・書籍というものはそれを編集するひとのディレクションによっていかようにでも変えられるものである。それはまったくべつのものにもなりうる。批判的であったものを肯定的に、肯定的であったものを批判的にすることでさえも可能だ。

「編集をあくまでもしない」という態度でさえも、編集的な態度である。「編集しない」という編集方針によってもものごとはディレクションされる。だからそもそも雑誌や書籍における公平さ公正さというものは幻想でしかない。言わずもがなWebコンテンツも、いまだに公正なものだと思われている(?)TVニュースもドキュメンタリー・フィルムも、人の手によって作られるものには作り手の思想が介在する。大なり小なりかならず偏る。もちろんこれは必ずしも悪いことではない。ある主張があって、それを受け取る側が自ら判断をすればいいのだから。

乱立する複数の意見のただ中に自らがいるということ。自らの判断でそこでくり広げられていることを解釈すること。それがいかに偏っているか、いかに間違っているか。そしてもちろん、そこに書かれている正しさをも見出すこと。


そもそもぼくはものごとを誤解しているかもしれない。そもそもあなたもものごとを誤解しているかもしれない。まずはこれが出発点だと思う。そのうえでぼくたちははじめてお互いを理解し、その先に足を進められる。(9/29/2009)


・ポッドキャスト「言葉にする」(最初のステイトメントとして)

日本語で話す(あるいは書く)ということはいやおうなくローカルなものになる。なぜならそれは日本語を分かる人たちのために話したり書いたりしているということを意味しているからだ。もちろんそれは翻訳されることもあるだろう。だけれどもほとんどの発話は、そしてほとんどの文章は、翻訳されることもなく日本語のままぼくたちの目の前を流れていく。

それをぼくはネガティヴなものとしてとらえてきていた。でも、しかし、ぼくは日本語で話すし、日本語で考えている。それがたとえローカルな言葉であったとしても、ぼくはそのローカリティのなかで生きている。ならばその言葉の前で、日本語が分かる人たち前で、そのローカリティの中でしかできない会話をすることも必要だろう。そして、ぼくは、自分が話してみたいひとたちと真摯な会話をしてみたいと思う。ときに起こる編集者による不当な修正の手前で、ぼくたちの言葉をそのままのかたちで届けたいと思う。(9/2008)

ステイトメント