最近、わかったこと、わからなかったこと
田中功起
1.この世界にはわかることとわからないことのふたつがある。だれしもその両方につねに触れている。ある日わかったことは、別のある日わからなくなり、また別のある日わかったりする。いままでもそうだし、これからもそうだろう。
2.もうすぐ二〇〇四年だ。ぼくが発表を(まともに)はじめて五年目になる。できたとおもっていたことはどうやらできていないらしく、できないとおもっていたことがいつの間にかできていたりする。とにかくつくりながらかんがえつづけるしかない。
3.このテキストは単なるメモにすぎない。つらつらとかんがえながら書いていくうちにどこかにたどりつけるだろう、おそらく。まずはおもいついたことやかんがえたことをそのままに書きつらねていこうとおもっている。この短いメモの積み重ねは、いま現在の自分と数年後の自分に対して、そしてすこしでもぼくに興味を持ってくれているだろうだれかにむけて書かれている。
4.最近のイベントはブダペストに行ったことだ。招待されて行ったはじめての海外展である(詳細を書くべきかもしれないが、それはまたの機会にしよう)。
5.展示準備も一段落した日に、ぼくは現地の現代美術館で(偶然と幸運のめぐりあわせで)とある展覧会(個展)を見ることができた。オープニング前で、まだ絵は壁に立てかけられていた。発音が難しく、アーティストのなまえは忘れてしまった。六〇〜七〇年代に活動していたハンガリー人の(とても政治的な)ポップ・アーティストで、その政治性のために生涯でたった一度しか個展をひらくことができなかったらしい。ぼくが見たのは彼の回顧展であった。会場を案内してくれた地元のアーティストも彼を尊敬しているようで、とてもていねいに彼の生涯と作品について、ゆっくりと解説をしてくれた。
6.作品が政治的問題によって拒否されつづけるということ。いまではそれらはけっして過度に政治的なものには見えないが、だがそれゆえにいっそう悲惨におもえてくる。彼にはもちろん仲間はいたようだが、現代において(とくに日本だとなおいっそう)認められないことはとてもつらいことだろうとおもう。とはいえそこには悲壮感はない。彼の、ただひたすら制作をつづける姿勢が作品からかいま見られる。つくりつづけることができる意志、その力はどこからくるのだろう。
7.彼の生涯はとても短かかったようだ(うろおぼえだが三五歳ぐらいで亡くなっている。もともとハンガリー人は短命らしいけれども)。彼の奥さんは健在だ。
8.ぼくらはどうしても目先のことにとらわれてしまう。どうにかならないのかな、このチマチマした魂は。
9.このことはしばらくかんがえてみる価値がある。
10.その後五年ぶりにウィーンに行った。ずいぶんと街の印象が変わってしまった気がした(このときのこともまたいずれ)。
11.最近気になる事件があった。ひとりの女子学生がトレーラーに轢かれて亡くなった。トレーラーの運転手は轢いたことにさえ気づかなかったらしい。トレーラーは一日彼女をその下敷きにしたまま駐車された。そのため捜索願を出されていた彼女を警察は捜し出せなかったようだ。偶然とは残酷なものである。
12.可能世界という考え方がある。かいつまむと、可能なこと(あるいは想像しうること)はそれぞれ別々の世界として無数に存在しているってこと(むずかしいことは各種テキスト参照)。それらが相互に干渉するかどうかはともかく。いまこのテキストを読んでいる(書いている)とき、眠っている自分も、食事をしている自分も存在している。無数に分岐された、想像することさえできないさまざまな世界が、無限に存在している。そこには自分の死さえも存在している。
13.たまたまぼくらはここにいあわせてこの原稿を読んでいる(書いている)。そしてこの世界がいままでどおりにつつがなくつづいていくものだとおもっている。だが世界の法則は(可能世界的かんがえ方にもとづけば)、つぎの瞬間まったくちがってしまうかもしれず、それこそたまたまおなじだけなのだ(ぼくたちがどの可能世界にいるのかはわからない)。
14.では生とか死とかってなんなのだろう。
15.可能世界についてかんがえるとき、ぼくはなぜかとても自由な気分になる。
16.展覧会についてかんがえてみる。展覧会をするとはどういうおこないなのだろう。どこでもいいから展示をするとかんがえてみる。そこにはありとあらゆる可能性がある。でもかならずぼくたちはその中からたったひとつの展示プランを選ぶ。無数のありえたかもしれない可能性はその瞬間に宇宙の彼方に行ってしまう。でも、じゃあぼくたちが選んだそれってなんだ?ぼくたちは実現しうる可能世界の集合の中にいる。実現できることってかぎられているけれども、けっこうたくさんあるはずだ。あっちの世界ではあっちのぼくたちが、こっちのぼくたちとおなじようなことをかんがえながらそれはそれでうまくやっているにちがいない。うまくいってなくて落ち込んでいるかもしれない。到達関係(つまり影響関係)のないあちらがわの「ぼくたち」はこのぼくたちとは「ぼくたち」という意味では近い(?)存在だけど、結局のところは無関係らしい。ま、たしかにもし関係していたら、身に覚えもない罪に問われることもあるかもしれない。ある日突然警察がやってきて身に覚えのない罪でしょっぴかれる。いやいやそんなことはない。問題なのは実現可能な到達関係(つまり影響関係)のある世界の話だ。
17.瞬間瞬間は判断と選択の連続なわけだし、すべてが分岐して生成していくのなら、可能世界の大きさは無限大だ。
18.すべてはこの一瞬にまったくすべて同時に存在する。なら、瞬間毎の可能世界の数はおなじはず。世界の始まった瞬間にすべては同時に終わっている。いや、終わりとか始まりなんてことがそもそもない。
19.想像しうる世界とは、その「想像する」ということにおいて、この世界と到達関係(つまり影響関係)にあるから、それ以外のものが到達関係(つまり影響関係)のない可能世界なわけで、それは原理的にかんがえることができない。でもそれを無理にかんがえてみようとすること自体はおもしろい。たとえばこの世界とくらべて、ただ単に牛と豚が入れ替わった世界、「国語辞典」という言葉が「白い巨塔」と書かれる世界、ミトコンドリアが一匹だけ少ない世界…。もちろんそれらも、そう書かれるだけで到達してしまっているのだけれども…。
20.ぼくは夜型のにんげんでもないし、かといって朝型のにんげんでもない。夜、集中できるときもあるし、朝早く起きて気分がよいとおもうときもある。自分をなにかしらのティピカルなものにあてはめ、「自分はこれこれしかじかだから」というひとがいるけれども、けっきょくにんげんはゆらぎのなかにあるとおもう。ティピカルなにんげんなどはいない。ある種の特性がそれぞれのひとのうちにあるとしても、にんげんとにんげん以外のものを区別するほどの差はそこにはない。どれだけ高く飛べたとしても、空を飛べることはない。超能力をつかってもせいぜい浮くていどだ。
21.昼に対して夜があるように、かがやく魅力に満ちた芸術を昼の芸術とするならば、その反対の夜の芸術というものがあってもいいようにおもう。ファイン・アートに対して、トワイライト・アートとでもいおうか(あるいはナイト・アートか)。
22.印象派は網膜に映じる光りのうつろいを画布に定着しようとした。そのため絵画は自然光(外光)の下で描かれた。陽光のなかにある風景は、もちろんきれいだ。そして夕闇にうつろいゆく光りも、またきれいだ。そこにはさまざまな色彩が展開される。夜の闇も同じようにうつくしい。都会に生きるものは夜の街の光りにも、自然光と同じうつくしさをかんじている。外光の下で描かれた印象派の絵画があるのならば、ゴッホのように人工光を描く、夜の絵画があってもいい。そして(隠喩的な意味も込めて)夜の印象派があってもいい。網膜に映じる光に焦点をあてるのならば、「夜の」という限定は、「印象派」にはもちろん適さないのだけれども。
23.かつて中原浩大もいっていたけれど、個人的なほんのささやかな精神的な欠落をうめうるような、そうしたタイプの芸術があってもいいとおもう(それが目的にならないていどの範囲で)。とはいえぼくがかこうとしているものは「芸術の役割(あるいは効能?)」にかんするもんだいではない。芸術とはそうしたものとは無関係なものとして定義されうるものであるからだ。
24.ぼくらは、まだなんでもかんでも展示可能な時代にいる。どれだけその作品が精神的な革命をおこすものであったとしても、あるいはそのにんげんの倫理観とか、そういったすべてを根本からつくりかえてしまうようなものであったとしても。
25.夜は思索の時間ともいえる。寝付けないときにきまって、なにかしらのおもしろいアイデアがうかんでくる。でもなんだかそういうときはめんどうな気がして、メモをとらないことがおおい。そしてつぎの日にはすっかり忘れてしまう。だから、寝付けない深夜におもいうかんだ芸術(これも夜の芸術)とは実現されえない芸術でもある。夜は、いままで、なんにんもの芸術家がおもいついては忘れてしまった傑作にあふれている時間かもしれない。芸術は夜にこそうまれている。
26.忘れてしまったことは、忘れたままにしておこう。
27.けっきょくはなにが大切なのかをかんがえてみる。必然性があるとかないとかをいうためには、あたりまえだがそのひとが必然性についてわかっていなければならない。では必然性とはなにか。必然的に結びついているといいうるものはなにか。作品を構成するひとつひとつの要素をとりだして、それらのつながりをうんぬんするとき、それらの必然性を問題にするとき、はたして必然性とはなにか。もっとも必然的だといいうるものをもってきてみる。ジョセフ・コスースの「ひとつと三つの椅子」。実物の椅子と写真に写された椅子と辞書に書かれた椅子。これをすぐさま、現実と虚構と言語、などといってもはじまらない。なぜ写真なのか。なぜモノクロなのか。なぜ辞書なのか。なぜその辞書なのか。とはいえそれらが入れかわっても、最低限かわらない関係性を、必然的なものとしてみることはできるだろう。コスースのこの作品には必然性がある。しかし必然性を最低限かわらない関係性、その結びつきに対して与えられた言葉だとすると...。
そもそもそんなものはないのではないか。てきとうに結びついているものを、ある種のコンテクストにしたがって結びついているといっているにすぎなのではないか。
28.話題を変えよう。
29.すべてのものには関係がある。それらがたとえ無関係にみえても、もとをたどればどこかでそれはまじわるはずだ。街を歩く。風に舞うゴミをみつける。風が吹き、ゴミが舞う。これは自然の因果関係だ。お腹がすく。お腹がすけばなにかを食べたくなる。なにかを食べるためにはなにかが食べられる場所にいく。なにかを食べることができてもすべてを食べることができず、ゴミができる。紙ナプキンもつかう。ゴミはゴミの日に外に出され、それを狙っているカラスが巧妙に穴をあける。穴からゴミは解き放たれ、紙ナプキンは風に舞う。その紙ナプキンをひとりのアーティストが撮影する(かもしれない)。すべて(?)は起こるべくして起こったこと。でも因果をそのはじまりまでたどることはできないだろう。すくなくともいえることは、そうしたもろもろのことは世界のはじまりからセットされていた作用の帰結かもしれないということ。なにかはなにかに関係しているだろう。
30.ささいなできごとのなかに世界(の法則)がみえてくる。
31.小学校のころ、先生にいわれたことでいまだにおぼえていることがある。なんにでも興味をもって「なぜ」と問いかけること。こんなにもあたりまえのことをなぜだれもつづけられないのだろう、といまになっておもう(そういえばフィッシュリ+ヴァイスの作品に問いかけのテキストだけのものがあったけど)。
32.ここのところ気になっているのは、アーティストはもうすこしまじめに芸術のことをかんがえてもいいんじゃないかってこと。そして評論家も批評家も、もうすこしまじめに芸術のことをかんがえてもいいはずだということ。あるいはキュレイターも、ギャラリストも、コレクターも、美術ファンも、美大生も。すこしでも芸術にかかわる気でいるのならなおさら。
33.といっても、もちろん生真面目な芸術をもとめているわけではない。笑えるものも、社会性のないものも、倫理的に問題のあるものも、政治性がまったくなくても、どんなものでもいいとおもう。
34.根は態度にある、たぶん、そうだ。
35.自分でかんがえて、ゆっくりと結論を出せばいいことなのに(これはぼく自身にも必要なことだ)。
36.自分自身の殻を破ることは、おもいのほかむずかしい。なぜだろう。すこしまえまでは簡単にできたのに。あるいはそれはできたとおもっていただけなのだろうか。
37.いうまでもないことかもしれないけど、ぼくたちは自分自身で変わることでしか変われない。より厳密にいってみれば、変わることは内においてしか起こりえない。たとえ外からの圧力によってなにかが変わるとしても、そのとき変わるのは内側だ。もちろんそれを決定づけるのは内側の反応でしかない。だから、たぶん、おそらく、きっと、ぼくたちは外にばかり目を向けている場合ではない。あるいは内に目を向けているつもりになってもいけない。ぼくたちにとって必要なことは自身の視点を更新しすることだ。自分自身の見方が変化しているとき、世界はもうすでに変化している。
38.いちばん悲しいできごとというのは人間に関係することなのだということをあらためておもったりした。
39.心と身体というものが、自分がおもっていたよりも単純につながっていたということをいまになって再確認している。身体を動かすことで、心が落ちつくことがある。身体が凝り固まることでかんがえが凝り固まることがある。身体が弱っているときには気持ちも弱っている。でもすべてあたりまえのこと。あたりまえのことがあたりまえに確認できる毎日というのはすばらしい。
40.芸術はすべてウソかもしれないという。たしかにそのフシはある。まやかしに見えてくるときがある。でもそれをホントウとして立ち上げることもできるかもしれない。
41.メモしておきたいこと。ぼくがいつもどうしようもなく絡めとられていたことというのは、つまりはアートということだけども、なんだかひどく狭苦しくて、小さなことのような気がしてきた。それに捕らえられて、右往左往している自分が馬鹿らしくおもえてきた。もっと重要なのはこの世界のこと。自分がどうそれに対峙しているのかということ。その行為のすべてがアートであるわけがない。それでもいいとおもう。いや、それがいいとおもう。
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72.書くことは思考することと同時に忘れることだ。最近、すこしまえに自分が書いたものを読みかえす機会があった。でもそれをいくら読んでも(もちろん既視感はあるが)、どうも自分が書いたものという気がしない。良いことを言っているな、と人ごとのように感心したり、まったく理解しがたいことが書かれていると思ったりもした。
73.あるアーティストについての長めの原稿を書いてからしばらくのあいだのここ数年は、そのテクストがある種の出発点になっているにもかかわらず、「書く」ということから自分を遠ざける結果となった。いわばそれは自身の制作に向かうための「けじめ」の機能をはたしていたのかもしれない。
74.制作の現場では基本的に言葉が必要ではなくなる。語るまえに作ってしまえばいいからだ。だからそこでは別のタイプの言語表現が必要となる。それは批評的なテクストや思考をうながす論理的なテクストではない(むしろそれらは作品として実現されるべきだろう)。結果としてその方法論を見出しえなかったため、「書く」ということができなくなっていた。
75.「書く」行為には根気が必要だ。思考の持続力こそが問われている。
76.そもそもアーティストのテクストにはどうしようもないうさん臭さがある。それは構造的なものだ。
77.作品をとりまく原理的なことや理念的なことを考えている。たとえば構造把握(作品を成立させるための方法、あるいはアイデアの骨組み、コンセプトと考えてほしい)は学習によってえられるが、それにともなう内容(たんなる表層的な見え、あるいはテーマと考えてもらってもいい)は学習によってはえられない。構造把握は作品の必要条件であるが十分条件ではない。いちばんやっかいなものは「内容」としての「表面」にある。構造に反映される表面こそ、作品を作品たらしめているものである。
78.構造と表面はカップリングである。色彩と質の関係に等しい。それらは相互に干渉しあいながら連動している、二重作動(独立した回路であると同時に連動した回路)である。
79.作品の構造をつかみ独自のテーマとしての表面をそこに載せることは、学習によって可能になる。だが、その相互の関係を二重作動として継続的に動かしつづけることは難しい。そもそも構造は定式化がしやすいため、動きはしだいに止まる。アーティストが方法論を獲得することで、しだいにつまらないものを作りはじめることはよくある現象だ。また内容のみの定式化もしやすい人もいるだろう。このときその作られたものは構造化されず、内容の追求のみに時間が割かれ、他者性のないものとなる。
80.展覧会をすることと作品を作ること、そして作品を考えること。それらの関係について考えてみたい。
*:1~37までの初出は以下のところ、38以降ブランクを挟んで80までは公開されてません。
「最近、わかったこと、わからなかったこと」『brick sprout』、vol.0、2004年1月、p.3;vol.1、2004年2月、p.4;vol.2、2004年5月、p.15:vol.3、2004年7,8月、p.6