作ること
田中功起
「ものを書く人はそれだけで不正義である」。
以前、高橋源一郎が書いていた。ぼくがそれを読んだのはかなり昔だし、いま自分の書庫から遥か遠くにいるのでその本を探し出してきて実際なにがどう書かれていたかを細かく確認することができない。いわば南極観測隊みたいな状況なんだなって想像して下さい。なので、正確なところはうろ覚えなんだけれども、ぼくの理解によると、彼が言いたいことは、どのような体裁だとしても書くという行為はつねにじぶんが正しいということを主張してしまっている、つまりけっきょくのところきれいごとが書かれているだけだ、ってことだったと思う。たとえば間違っていると書いても、じぶんはすくなくともそれが間違っていることに気づいている、と気づけるじぶんの正しさを暗にいやらしくも示してしまっている。悩んでいると書いても、じぶんはこれほど誠実にその問題について考えているんだ、とじぶんの立場の正しさを感じてもらおうとしている。もちろん、あることないこと言い立てて自らの正しさをよりいっそう強く主張するタイプのテキストもあるけど。
だから書くということは原理的にいやらしいことなのだろう。だってじぶんはつねに正しいなんてことないよね。このテキストもその構造からは逃れられない。ぼくだってこうして書くことで自らの正しさをアピールしている、だろう。
さて、閑話休題、ここでの目的は芸術の本質について書くということでした。とはいえ荷が重い。「芸術の本質について書く」なんて無理です。ごめんなさい。
ひとつ書けない理由もあります。芸術についての問いかけって、なにかしらゆがんだ感じがします。どんなふうに問いかけたとしても最後にはそれは制度あるいは状況の問題になってしまうから。芸術の価値や役割について問うことはもちろんのこと、芸術の本質とはなにか、という問いでさえも、ぼくらは制度との関係ぬきに語ることができない。かつてはありえただろう「本質とは?」って問いも、もはや相対的なものになってしまった。(普遍的な)本質でさえ、それぞれの個人によってとらえ方が違うってことになっている。リアでの今回の特集が成り立つのも、だからなんだけれども。で、ぼくは実際のところ、その相対的に変化する価値体系ってものにまず興味がありません。なぜなら相対的な議論はディベートのスキル合戦みたいなもので、説得のための手法を多く持っているひと勝ちみたいな、中身のないものになってしまう。あまり建設的じゃないですよね。
「芸術とはなにか?」といきおい勇んでも、そもそも自律的なシステムでなくなってしまった芸術を嘆いて「芸術はいまどうあるべきか」という問いになる。それは現状批判であり、「芸術とそれをとりまく社会システム」「美術館やギャラリーとの関係」「美術史との関係」などなど、とすべては制度論・状況論になってしまう。制度論では制度は変わらないし、状況論では状況は打開できない。
思うに、芸術の本質ではなく、芸術についての本質的な問いは、「作品とはなにか」あるいは「なぜ作るのか」という作品と作り手をめぐるところにあるんじゃないかと思う。なぜならそれはクオリティ(作品)の問題であり、実践(作り手)の問題だから。
「なぜ作るのか」の問いのなかにはふたつのことが含まれています。「なぜ作ろうと思ったのか」プラス「どうして作りつづけているのか」。
ぼくたちはしかし実際、だれにも教わっていないのにすでに作っていました。子どもの頃、だれでも何気なく絵を描いたり、砂場で山を作ったりしていた。じぶんの行為がなにを意味するのかという手前でさきに手が動いていた。そうですよね?だから「なぜ作ろうと思ったのか」への答えは、「自覚なく作っていたんです」です(もし制作のはじまりを無意識の行為にまで広げるのならば)。
では次に行為を自覚する場面はどのようにして訪れたのでしょう。それはたぶん言葉によってだと思う。たとえば「芸術」でも「美術」でも「アート」でも「絵」でも「彫刻」でも「作品」でもいいけど、なにかしらの言葉。行為が言葉によって分節化されることで、事後的に「作ること」とその結果としての「作品」が自覚された。
ここでたぶん、「自覚なく作れていた」ときの魔法が解け、ぼくらはスランプに陥ります。もはや無意識には作れなくなる。そしてなにを作っていいかわからなくなる。そこで作りつづけることをやめてしまった仲間もいただろう。魔法を解く呪文(言葉)の力が強すぎたのかもしれない。知識が邪魔をしたのかもしれない。将来が不安になったのかもしれない。まあ、でもここにいるひとたちはとりあえずその困難を乗り切り、それでも「作りつづける」道を選んだ。だから「なぜ作りつづけているか」のひとつの答えは、「なぜならぼくらはすでに困難を乗り越えたから」。「なぜ作るのか」の問いに対するもっとも素朴な答えがここにあると思う。自覚なく作りはじめ、自覚的に作ることの困難さも乗り越えたところに作り手がいるとして。
だけれども、おそらく「なぜ作るのか」と問うひとは、この素朴な答えではなくより本質的な答えがほしいのだろう。
そこへ踏み込むまえに「作品とはなにか」の問いにまず答えておく必要があります。ぼくはここで「作品」と「作ること」をひとまずは分けておきたいと思う。というのも、行為そのものには価値判断を下したくない、というか、そもそも作ることはよいことだと思うからです。そこにはよこしまさがないから。どんなにすばらしい作品も、どんなにだめな作品も、どんなに残念なひとでも、アーティストでもアーティストでなくとも、作るという行為そのもののなかでは平等にうつくしい。ぼくは、作品そのものとは切り離して「作る」という行為をひとまず擁護したいと思う。
だけれども「作品」はただちに価値判断にさらされるものです。ぼくらが社会的な存在であるかぎり、そこから逃れることはできない。でもだれかの(客観的な?)価値基準によって作品が評価される、という受け身な場面をイメージしないでください。もちろん「作品とは何か」の問いは見る側と作る側のふたつの方向から考えられるでしょう。しかし見る側からの問いかけはまたしても状況論へと近づいていきます。つまり問いはこのように変わるでしょう。「いま何が作品と呼ばれているのか」あるいは「いまなにを作品と呼べるのか、呼ぶべきなのか」。この状況判断的な問いも行き止まりです。前者はグローバルなアートに、後者はドメスティックな美術に近づいていくでしょう。でもいずれも当人のファンタジーかもしれません。「世界で通用する」も「日本独自の」も幻想です。ぼくらはそもそもなにかをおおざっぱには腑分けできないくらい膨大なものに取り囲まれているはずですから。世界はじぶんが思っているよりも複雑で広い。
だから残された立場は、そのひと個人から見えている世界をベースにすることになる、と思う。ぼくらは作り手と作品のみの一見暗く閉じられた世界を想定します。あなたの判断があなたのすべてです。そのとき「作品」とは作者によって名づけられたもの全部を指します(ここでのミソは作り手が実際に作った作品だけでなく、「これは作品だなあ」と認めただれかのものも、歴史上の作品も含めて、彼・彼女が「作品と名づけたもののすべて」だというところです)。あくまで作者が「これが作品である」と判断するわけですね。もちろんたいていの作者はじぶんの「作品」を(じぶんで)すばらしいと判断している。ぼくもそうだろうと思う。そうじゃないとそもそも作品として表舞台に出すことができないですから。なので、作者の判断というのは価値をともなったものです。そこに作者の主張もある。責任重大です、言うまでもなく。
しかしその責任を作者はどこまでわかったうえで判断をしているのでしょうか。つまり作者が「作品である」と言うとき、そこで倫理的な判断はされているのだろうか。例えばそれはこのような自問自答です。「作品ができた。ずいぶんがんばった。時間もかけて丁寧に作りあげた。なかなかよい感じだとじぶんでは思う。でもなにかしら残念な感じがする。この感覚はどこからくるのだろう。こんな残念なものを作品としていいのだろうか」。もちろんぼくらはそんなものを作品とは呼ばない。このときじぶんが規範として参照しているのは、じぶんの労力の量やこだわりではなく、なにかそれを越えたところにあるものだと思います。そのじぶんを越えたなにかしらの規範との関係のなかで作ったものを作品と判断する。たぶんこれが作品を作る上でとても重要なことだとぼくは思います。じぶんの好みをとりあえずわきにおいておいて、そのうえでなお作ること。そのとき作者はじぶんを犠牲にしたとしても、そのなにかしらの規範とタイマンはって作っているわけです。
さて、結論の前にもういちど同じ質問をします。
なぜ(あなたは)作品を作るのか?
たしかにぼくはなぜ作りつづけているのだろう。お金のためだろうか、だれかにほめられたいからだろうか、だれかにかまってほしいからだろうか、有名になりたいからだろうか、もてたいからだろうか、などなど。そういう理由も少なからずあるでしょう。うぶなフリはしません。ぼくだってお金も欲しいし、もてたい(?)。でも時間をかけて作品を構想し、毎日なにかしらのアイデアを絞り出し、制作をつづけるってことはじぶんのためだけでは無理だと思います。ぼくらの自意識はそんなに強くない。趣味じゃないわけだし。かといってだれかのためにそう何年も作りつづけられるだろうか。わかりません。これは保留。そういうひともいると思います。
でも、ぼくらが作るのはやっぱり芸術のためだからなんじゃないでしょうか。すくなくともぼくは芸術のためだからこそ作るポテンシャルを保てる。連綿と続く歴史の末端にじぶんがいるとして、あなたはアングルやマティスやポロックやセラやナウマンやそのほかだれでもいいけど、そのあとにいるものとしてはずかしくないものを作れてますか?と自問する。歴史をまえにしてすくなくともはずかしくない作品を作る。彼ら+彼女らの顔に泥を塗らない。あなたは塗ってませんか?ぼくは塗っていないだろうか。恥っていわば理想との差に対しての反応です。はずかしいと反応するじぶんは、じぶんの作品もだれかの作品も同じ土俵にのせて確認できているってことです。それがなんであるのかをみずからが知っているにもかかわらず、できないときぼくらははずかしいと感じる。ときにぼくらの自尊心はその反応を無視することもできるだろう。でもそんな虚勢に意味があるんだろうか。そんなにぽんぽんといいものができるわけがないし。まずはできあがった作品を見たときのじぶんの正直な反応を受け止めること。微弱なシグナルも見落とさないこと。個人を越えたところにある規範のようなものとはこれです。ぼくらの倫理はそこにあるんじゃないだろうか。
作るという行為を自己満足の罠から救い出すひとつの方法がここにある。だから作品とはなにか、の問いは実は単純だ。それは歴史を規範とした倫理性のなかにある。価値基準は多様である、って当たり前だけど、芸術の倫理を基準にすれば価値はひとつしかない。芸術は芸術としてのみ存在し、その倫理を引き受けたとき、作り手はみずからの作ったものを作品と呼べる。あなたが芸術の倫理に従うかぎり、作品は作られる。かならずしもすばらしい作品が生み出されるとはかぎらないにしても、作品が作られる可能性はひとまずぼくらの側に残される。まあ、でもはずかしい作品をつくっちゃったら作り直せばいいし、また作ればいい、と思う。いいですよね?リベンジはできます。そうやってぼくらは作りつづけてきている。
さて、そうして枕に話は戻る。ぼくはこんなふうにえらそうに書いたけど、ぼくもあくまで作り手の立場を正しいものとしたうえで語っているだけです。そうじゃない立場からすればこのテキストは穴だらけかもしれない。
だから結論が重要なんじゃなく、「なぜ作るのか」ってことを問いかけ続けることが重要だと思います。社会的に定義された芸術なんてどうでもいいじゃないですか。彼らの言葉にだまされないように。ぼくらに重要なのは作品についての議論です。クオリティと実践の問題。たぶんそれこそがこれからも議論されるべきことだと思う。
*初出:田中功起「作ること」『REAR』no.22、2009年10月、pp.24-27