書かれたものを集める(Collected Writings / A Book)
書かれたものを集める(Collected Writings / A Book)
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5/18/10 蔵屋さんに送ったアイデア 田中功起
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「無限なものとベーシックな可能性」 "something limitless and its basic possibility"
廃材のグリッドを座標みたいなものととらえ、その中に可能性の束が散らばっているようなイメージの映像インスタレーションです。モチーフはトイレットペーパー。ひとつのものの複数の現れ
ひとつのものの複数の現れ/トイレットペーパーの複数の現れを探し出す/トイレットペーパーを複数化し、仮設の空間、仮構された座標のなかに配置する/複数=可能性の彫刻
*thematic thought
・ひとつの「もの」がもつさまざまな可能性を導き出す。複数のあり方を記録する。人との関係、その物同士の関係、ほかの物との関係...
・ぼくの制作のなかでは「トイレットペーパー」がモチーフとして何度か出てきます。そのいくつかの制作経験を通して、「トイレットペーパー」が複数化され、べつべつの可能性がすこしずつ導き出されている。この方向性を圧倒的な数において見てみたいというもの。
・ひとつのトイレットペーパーを多角的にとらえる試み。1000(?)のべつべつの現れとしてのトイレットペーパー。
・多角的で複数の現れが、廃材を使った三次元のグリッド・座標のなかに散らばる。
・仮構されたありえたかもしれない可能性のかたまり。可能性の彫刻(いや、もはや建築?)
*practical
・トイレットペーパーを複数化したビデオが廃材のグリッドのなかに展開する、可能性のインスタレーション
*プロセス
・たとえば体育館のような場所を借りて、合宿して撮影(修行?)。
・「トイレットペーパー」を転がしたり、燃やしたり、一気に巻き取ったり、並べてみたり、ぬらしてみたり、入れ替えてみたり、眺めてみたり、ちぎってみたり、線を書いてみたり、だれかに渡してみたり、とさまざまな作業を映像に記録する。
・いくつかのアプローチの仕方を設け、それに基づいてトイレットペーパーのありうべき側面をひとつひとつ見つけ出していく。
・複数の友人に手伝ってもらう。
*インスタレーション
・100台ぐらいのモニター+トイレットペーパーが、会場に所狭しと置かれる。
・ひと部屋、制作プロセスのドキュメンタリーを見せる場所も作る/制作に対するメタ的視点の導入。
・さらに廃材による仮設の空間を作っているドキュメントも挿入?/展覧会に対するメタ的視点の導入
・トイレットペーパーの製造過程の映像?
・トイレットペーパー職人?
・インスタレーション自体も複数化される
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5/18/10 追加分
映像と構造
構造と映像の関係ですが、もしかするとこう考えるといいかなと。
たとえばナレーションとイメージの関係に似ている。映画をナレーションとイメージへと分けてみたとき、さまざまでばらばらなイメージは全体を貫く一本のナレーションによって構造化されたものだと言えます。このときナレーションは単なる言葉ではなく構成そのものです。言葉によって分節化されていくようなものです。
ぼくの場合、個々の映像作品はそれぞれ個々に独立した作品でもあって、しかし、それが空間の中に置かれたとき、観客はそれぞれを自らの身体とつかって一本の映画へと、体験を構造化していく。で、ぼくのインスタレーションはそのナレーションの構造を視覚化しているんじゃないかなと。通常、ナレーションはリニアなものなので時間とともにあるし、ひとつしかない。しかしインスタレーションにおいては、観客それぞれによってその場での経験は複数のものとなる。映像が空間的に構造の中に配置されていることで、観客ひとりひとりに別々の経験が生じる。個々の映像作品と空間における身体的な運動を通して、べつべつの経験がそこに生じ、時間的にはひとつのナレーションが、空間的には複数のナレーションとなる。
この身体経験については、都市を歩いたり、モールを歩くこともヒントになりました。お粥食べて買い物して映画を見て夕食、とかそういう流れ。ぼくらはある空間を歩きならば自らの存在をとおしてひとつのリニアな流れのなかに編集していく。これがまあ、生きるということでもありますけど。つまり空間的にはどうにでも回れるけど(この時点では可能性は無限)、身体はひとつなのでひと通りしか選べない(ひとつのナレーションへと収束)。
作品はひとつだけど複数の経験を導くために構築物によるインスタレーションを必要とする。
廃材の使用
・廃材とは、かつてなにかしらの目的のために使われ(機能が与えられ)、後にその目的(機能)が失われたもの。必然的なものであったにもかかわらずその必然性が確認できないもの。なにかしらのベクトルがあるにもかかわらずそのベクトルがどこを向いているのかわからないもの。自らの文脈を無くしたもの。
・廃材はつねに偶発的なもの。その場所にすでに与えられているもの。
1)複数の経験を誘発するナレーショナルな構造、これをさらに廃材によって構築することは、その誘発の構造をさらに別の次元へと導くため。
リレーショナルな構造は複数のべつべつの経験をひとりひとりの観客へと与える。けれども、そのひとりのとってその経験はひとつでしかない。これをさらにそのひとりにおいても複数のものとするために「映像」があり、そして「廃材の使用」がある。
ふたたび映画を見るという経験は、イメージの羅列をナレーションの構造を通してリニアな物語へと収束させることである。そして同時に、自らの記憶を参照することで他のベクトルを持つべつの経験へとアクセスしつづける(開いていく)ことでもある。ばらばらの映像作品群が空間に散らばることで、複数の順列組み合わせを可能にする。「失われた文脈」をもつ廃材はさらにべつべつの反応を観客に与える。
ナレーションというリニアなものが、空間の中で映像と構造、廃材によって構成されることで、それぞれのレベル(イメージ・身体・文脈あるいは記憶)においてでも、ノンリニアで立体的・身体的な経験として編集される。
2)展示空間というのは、まず最初に与えられている、その建築自体を一からつくるのではないかぎり。展示空間とは「展示をする」という目的・機能を満たすためだけに作られた場所。そこでの廃材の使用は、目的遂行的空間を一度、無目的な場所へとするための方法。