その3 「らしさ」幻想と「でんごんかんしょうゲーム」
その3 「らしさ」幻想と「でんごんかんしょうゲーム」
7/2/11
Q. 学習指導要領で重視されている「鑑賞」について、どのように指導すればよいかわかりません。
A. 「鑑賞」というと、つい名画鑑賞を思い浮かべてしまいがちですが、小学校の鑑賞はそれだけではなく、自分や友達の作品、身近なもの、暮らしの中のものなども含まれます。そして、それらから感じ取り、自分の表現と関連させて能動的な鑑賞を行うことが大切です。先生からの説明を受け身的に聞くだけでなく、一人一人が体全体の感覚を働かせて感じ取るようにし、自分の表現活動に生かすということです。(註1)
少し古い資料ですが、教科書を製作している東京書籍のホームページに掲載されていたQ&Aです。この回答を考えるのがそもそも先生の仕事のはずですが、こうした質問が当然のように想定されていて、教科書製作側に先生が教えを乞うているというこの設定自体、現場の異様な実状をよく表しているといえます。
残念ながら、この回答で助かる先生は皆無でしょう。ここに書かれているのは指導要領の文言の反復でしかなく、対して異常なまでの時間不足の中で先生たちが求めているのはその具体例です。問いは鑑賞を方法に還元できないことを訴えているのに、回答はそれに対応していません。
鑑賞の授業の方法が「わからない」のは、これまで書いてきたように多忙さや経験の乏しさにまずは由来するとして、しかし先生たちを苦しめているのは必ずしも時間の不足だけではないように思います。図工が抱えているさらに深刻な問題はおそらく、過剰といっていいほどの子ども「らしさ」の信奉にあります。子どもは各々独自の、大人とは異なる知覚を備えていて、それを壊してはいけない、という考え。子どもを「小さな大人」ととるか自律した存在ととるかという議論は、教育論ではルソーの『エミール』とかフィリップ・アリエスの『〈子ども〉の誕生』を教本にした定番中の定番の話題なので教員資格を持つ方々は自覚的なはずですが、傍目から見ると現場の先生たちは子どもの自律性尊重にやや肩入れし過ぎなように感じます。ときに「個性」と言い直される子ども「らしさ」を、それ自体が悪ではないにしても絶対的に信頼するあまり、ありのままを受け入れることが先立ち、方向付けることに弱腰になっているのです。これでは目的と手段が真逆です。「子どもの姿や思いを大切にする」(これはじっさい先生たちが非常に好んで使う言葉です)、といえば聞こえはいいものの、単なる放任とそれに由来する個人主義助長の危うさを孕むこの通念こそが、時間の不足以上に先生たちを縛り付けているように思います。読み書きや計算といったスキルではなく、感性とか情操だとかに関わる、と信じられている「図工」、「美術」においてこの通念の浸透は特に顕著なようで、さらにいえばこれが図工に携わる先生たちの反知識主義を生んでいます。「絵は感性で見るものであって知識で見るものでない」、というのもまた先生たちが好きな言葉ですが、無知のまま見ることが無垢な目であるとは思われません。この言葉が決まり文句となり、「感性で見る」とは、あるいは「知識で見る」とは実際どういうことなのかについては思考停止状態でともかく知識に類することが拒否されている印象を受けます。
それはさておき鑑賞に関していえば、仮に子どもの自発的な発言のままに任せた場合、よく言われるように「自由な」発想を子どもがするかといえば、そんなことはまずありません。作品を見て落ち着いて対話ができる年齢である小学校の中学年にもなれば、既に日常生活における経験の蓄積によって知覚は十分過ぎるくらいに習慣化されていて、作品を前にして返ってくる反応はほとんど代わり映えがない。例えば暗い色の絵は暗く、高級な素材が使ってあれば高級で、密度が高かったり写実的であれば優れていて、戦争が描いてあれば悲しい、というふうに。こうした反応をどう受け入れて伸ばしたところでそれはステレオタイプの上塗りにしかならず、わざわざ作品を見る必要などないでしょう。馴化された知覚の意識化や刷新に美術の大きな機能のひとつがあるのであればなおさら、ありのままを受け入れているだけではあまりにもったいない。図工教育の現場は結局、単純さを純真と、無知を自由と巧みに言い替えながら無為のままに目的から目を逸らし、美術の活用法が未だにわからないまま漫然と続いている、というと言い過ぎでしょうか。
さて、この「らしさ」に対する幻想が前回書いたような授業手法に端的に示されているわけですが、井上ひさしによれば「感想(文)」の抱える問題を打開するには「観察文とか、説明文」が必要であるという。では美術において「観察/説明」とはどのようなものが考えられるのか。
これに当てはまるものは、既に存在します。それは、学芸員や美術史を学ぶ人たちがごく一般的に行っていることです。ある作品を論じる場合、どんな論であろうとその冒頭は作品の示している視覚的情報を丁寧に観察して言葉で説明することに割かれるのがふつうです。ディスクリプション(作品記述)と呼ばれるこの方法は、徹底して見えることを書き連ねていく一種の作業ですが、筆者が作品の情報をどれほど条件として把握したのかを作品評価の前に提示するための重要な部分です。
藤枝晃雄氏に優れたお手本を見せていただきましょう。以下はカミーユ・ピサロの「ポントワーズのエルミタージュ」(L’Hermitage at Pontoise, 1867)についてのディスクリプションです。検索して、画像と合わせてお読みください。
「画面は、ほぼ三つの領域に分けることができる。手前の大きな道を軸にして、左の叢(くさむら)、右の斜面、そして丘である。この作品は、実景に即して描かれたものに基づいてアトリエで変更されたものと考えられている。叢、丘などの自然は緑と茶という共通した色相からなっているため、上に伸びるいく本かの樹木、とりわけいく軒かの農家がなければ画面は平板になる。さらに幾人もの人物がいなければ平板さは増大する。これらが画面に奥行のある起伏を与えているのである。画面のほぼ中央に一軒の農家が描かれている。それは明るく突出し、パラソルをさした女性、左の農家の同じく明るい壁と結びついている。また煙突から立ち昇る煙は雲と関連している。左の農家のかたまりは形体が類似しながらその配置、色彩において変化に富んでいる。それらは明暗の調子によって分割されて、幾何学性がきわだっている。右の農家は、奥まった場所にあるため暗い色調をもっているが、壁、屋根、窓の一部は明るく、これもほかの明るいいくつかの対象物に相応して画面の調子を立て直す。三つの領域とそこに配された事物と人間の描写、表現は、エルミタージュの光景を構築的にする。そしてこれが平板になるはずの区間に奥行を、たぶんに凝縮された奥行をもたらしているのである。」(註2)
以上のこまやかな観察と分析があってはじめて、この論は説得力をもって作品の評価へとつながっていくわけです。すなわち、「「ポントワーズのエルミタージュ」の特性は、その構築力にある」。
作品を吟味するとはこういうことでしょう。この基盤の上にこそ「感想」がある。あるいは「感想」を得た後に翻ってその根拠となる基盤が意識化されるべきで、そうでなければただ手前勝手な、ときには作品とは全く無関係で他者理解からはほど遠い個人的な「感想」だけが無数に浮遊するばかりになってしまいます。冒頭に引用したQ&Aの回答にあるように「能動的な鑑賞を行う」ことが目指されるのであれば、このくらい徹底した観察がなされていい。そして井上ひさしのいうように、観察や説明なら子どもにも可能なわけです。
ではこのディスクリプションから方法を抜き出して、授業として借用することはできないでしょうか。それが作業であるなら形式として授業化し得る。上に引いたようなレベルまではむろんいきなり望まずとも、基盤形成の意識を伝えるエクササイズを考案することはできます。
この考えを前提として、ぼくは以前子どもたち(小学6年生)に授業を行いました。以下に紹介するのは、先生たちが授業の実践例を提案し研究するために定期的に開かれている研修会において試みたひとつのプランです。
とりあえず「でんごんかんしょうゲーム」と名付けた通り、この授業はゲームの形式を取りました。まず子どもたちは二人一組のペアを作り、一方は作品に向かって座り(A)、もう一方は作品に背を向けて座ります(B。この子どもには紙と鉛筆が渡されます)。Aは作品の情報を言葉にしてBに伝え、BはAから与えられた情報を基に、見ることなく作品を再現します(図参照)。両者には次の注意点が伝えられます。
・伝える係(A):1. 描く係(B)の絵を見てはいけない。2. 見えるものの大きさや場所などに気をつけて伝えること。
・描く係(B):1. ふりかえってはいけない。2. 伝える係(A)に質問してよい。
時間は授業時間内に収まるように一応15分に設定しました。なお細かい話ですが、ペアを背中合わせにすると見えない相手に言葉を伝えるために声が大きくなり、騒がしくなってしまいます。向かい合わせか隣り合わせにして行うのがやりやすいと思います。
ゲームの最中、Aは必然的に作品をよく見なければなりません。見ていない人に伝えるには、目立つモチーフや細部ばかりでなく、全体に目を向ける必要があります。例えば、縦長なのか横長なのか、あるいは正方形なのかといった通常はほとんど意識されないプロポーションから話を始めることが求められます。
そして何より、いきなり「感想」に飛躍させない、というのがこの方法の最大の特徴です。印象を伝えても当然相手は理解できないため、自ずと作品の構造を意識せざるを得ません。また、前回触れたように現在一般に行われている鑑賞の授業手法は対象となる作品をどうしても限定してしまいますが、「でんごん」は選べる対象がより広く、印象というバイアスの制限が弱いためその選択が結果を左右しません。発言させる授業のように声の大きい人が評価されやすいシステムと異なりチャンスが平等で、物理的な評価対象も残せます。また、事前に先生自身が対象作品をよく見ておくことが必須ですが、発言を引き出すために躍起になる必要がなく、先生の負担が軽減できるので現行のシステムにも当てはめることができます。
「でんごん」が終わって、AはBの描いた絵をはじめて見ます。Bは見ていなかった作品をはじめて見る。ここでBは実物と見比べながら作品をよく眺め、Aは自分の指示を省みます。ここからなるべく多く時間をとりたいところです。ゲームだけだとイメージを要領よく伝えられる言語能力や伝達されたことを的確に図像化できる表現能力の個人差だけが目立ち、細部は無視されてしまうので、ゲームの終了後にそこをカバーします。どのようにして言葉で伝えたのか。どう伝言を理解したのか。伝わらなかったところはどこか。うまく似せることができたペア、効率よく情報を引き出すことができたチームは、作品の構造をよりよくつかむことができたことになります。伝わらなかったところは、(時間的に間に合わなかったところを除けば)見えていなかった部分であることを示します。これを踏まえて全員で話をすれば、作品の仕組み、さらには作品における作者の工夫も見えてくるでしょう。役割を交代して再度行ったり繰り返したりして回を重ねるごとに、「〜のように見える」から「そう見えるように作られている」へと子どもたちの意識がシフトしていく、はずです。
以上が、一通りの内容です。このゲームは子どもの活動範囲を制限しているので、先のQ&Aが述べるような「体全体の感覚を働かせて感じ取る」ことは望めないかもしれません。しかし鑑賞の授業の着地点が見えづらいなら、これくらい的を絞った授業があってもよいのではないでしょうか。またこの方法を立脚点にして、別の授業へとつなげることも可能です。ゲームを通じてある作品の仕組みを抽出することができたなら、その仕組みをそのまま方法として授業化することもできるでしょう。
思うに先生たちの率直な意見は、自分たちは美術の専門家でないのだから作品を理解したり子どもに解説を行うことは難しく、鑑賞を授業にせよと言われても困る、といったところではないしょうか。作品に関する専門家による解説の類いを読んでも納得できない、理解できない、あるいはそれを探したり読んだりする時間すらない、というのが現状であるなら、先生自身が一度ディスクリプションをやってみるのもひとつの手です。作品がどのように組み立てられているかを把握することができれば、それを子どもたちに伝える方法も見えてくるでしょう。ディスクリプションだけを持ち上げるのが意図ではありませんが、これは鑑賞のスキルをトレーニングするための有効な方法であると思います。じっさいやってみるとわかりますが、作品の記述を繰り返すごとに視野が細分化し、光に照らされるように作品がじわじわと見えてくるはずです。それはとても楽しい経験です。
義務教育の一科目として存在する図工は、美術に隣接する領域であれ直結するものではありません。指導要領には「目標」として「表現及び鑑賞の活動を通して、つくりだす喜びを味わうようにするとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て、豊かな情操を養う」とありますが、それは特定の作品制作のための狭い技術習得や美術に限定された知識を与えることを指すものではないでしょう。むろん専門性を育むことがねらいではない図工は、端的にいえば、美術を介して考えながら見ることと作りながら考えること、あるいは課題発見および課題解決能力を養う場であるはずです。その認識がはっきりと共有されていないために、先生たちは板挟みの状況下で困惑しています。受験や就職には役立ちそうもないものとして(特に社会参画意識を謳う現在の指導要領の方向ではますます)授業時間数は徐々に減らされていき、美術分野からは子ども相手に過ぎないこととしてほぼ完全に無視されている。いまや図工は、「ガラパゴス」(そろそろ死語…)どころでなく、置き去りにされた秘境と化しています。そこでは図工のための図工が闇雲に反復され続けている。現状についてどれほど把握しているかは心もとないながらも僕がこうして図工について書き、ちょっかいを出そうとしたのはそのためです。先生たちはもっと、道具として利用するつもりで美術に接した方がよく、その先生たちに外に目を向ける余裕がまったくないのであれば、アーティストをはじめとする美術に携わる人々からアイディアが提供される機会がより多く設けられるべきでしょう。作品を成立させる方法を先鋭化させ、作品を介して私たちに何ができるかを教えてくれる作品が多い現在、おそらく先生たちが思っているよりも図工のヒントとなる例は数多く実践されています。
義務教育である以上、図工が抱える問題はすべての人に関係しています。より開かれたコミュニケーションが今後促されることを願って、この短い連載を終えます。
(2011.6.21)
註
1:http://www.tokyo-shoseki.co.jp/e-mail/qanda/q-es-zuko.htm
2:藤枝晃雄『絵画論の現在[マネからモンドリアンまで](改訂版)』スカイドア、1999年、pp.40-41)
書かれたものを集める(Collected Writings / A Book)
p05