その4 奥村雄樹(北京)→田中功起(パリ)/2006年2月23日
その4 奥村雄樹(北京)→田中功起(パリ)/2006年2月23日
3/8/11
田中くんからメールをもらって以降、すさまじい忙しさのなかにいたよ。渡航前に片付けるべきもろもろの仕事を終え、さまざまな手続きや家財道具の倉庫への移動を死にものぐるいで済ませ(実際はまだ済んでないのもあるけど)、さまざまな人と会い、いくつかの嬉しいことと腹が立つことを経験して、二月一五日の夜に北京に到着した。いまこれを書いているのは一八日の夜。例のスクリーニングを終え、やっとこちらに手をつけることができる。それにしても、さすがに疲れた。スクリーニングのあと、レクチャーと質疑応答で二時間以上喋りっぱなし。でも基本的にはうまくいった。思ったより楽しんでくれたみたいだし。くわしくはまた今度(というか、ニューヨークに遊びに来てね)。そういえば田中くんを知っているという中国人キュレーターもいたなあ。国際交流基金でのグループ展に関わっていたとか。とにかく、いま僕がウルルンと滞在している北京郊外のアートセンター、草場地工作站(Workstation Arts Center)はとても良いところ。住みこみの人々はみなとりあえず温かいし、食事はワンパターンだけど美味しいし、風景は素晴らしいし、犬は利口で美しい。砂埃が舞いまくってるけどね。なので、このメールに書くような内容を考えていると、ひどく場違いな気もする。でも実際はぜんぜん問題ない。ここに来て四日目だけど、もう何年もいるような気分だし、人間なんてそのときいる場所や環境に適したモードに驚くほど簡単にシフトできるもの。明日は近くの市場や町をぶらついたあと、何人か北京在住のヴィデオアーティストの訪問をうける予定になってる。
さて、〈アート〉のうさんくささについてだけど、確かに田中くんの言うとおりだ。おかげで僕の頭もスッキリした。今後は〈アーティスト〉という肩書きをつけられても受け入れようかな。ちなみに、〈アート〉を巡る用語のうち個人的にもっともうさんくさい気がするのは〈コンセプト〉だったりする。特に大学の講評会においてこれ以上にうさんくさい言葉もないと思う。「あなたのコンセプトは何ですか?」って。
とにかく僕が考える〈批評性〉について書いてみる。それは、ある対象についてそれがいったい何なのか=いかなる構造においてそれがそれなのかを描き出そうとする態度のこと。ちょっといま手元にないけど、以前、田中くんたちが『REAR』誌に寄稿した〈批評〉についての論考においても、たしか〈批評〉と〈評論〉あるいは批評家と評論家を区別してたよね。そのときの内容はくわしく覚えていないけど、〈批評〉とは、たとえば美術においてならば、作品それ自体が何であるかを記述する試みであって、その作品がつくられた背景だとか作者の意図だとかそれが読解されうる文脈だとか、それが持つ意味や意義だとかを解説するのは〈評論〉だ、というように僕は考えている(そして、このことを制度の問題だとはあまり思っていない。〈批評〉という概念を知らなくても〈批評〉文は書かれうるし、〈評論〉についても同様だ)。もしかしたら〈批評〉ではない言葉を召喚したほうがいいのかもしれない。僕が言う〈批評〉は、対象の価値についての言説とは少し違っていて、「批判」というニュアンスはあまりないんだよね。「批判」はあくまでも〈批評〉が事後的に帯びうる性質のひとつに過ぎないというか。いずれにしろ、このことは美術作品においても同様だと思っている。ある作品が言及する対象が〈世界/宇宙〉であれ「ガンダム」であれ、その言及が〈批評性〉を持っていれば〈芸術性〉を湛えうるし、「言及」が〈評論性〉しか持っていなければ、〈観念性〉——田中くんの言葉を借りれば屁理屈——で塗り固められたガラクタになるのではないか。そう僕は考えたのだった。余談だけど、〈批評〉という態度は科学者のそれに似ている。〈批評性〉を持つテキストと作品はそれぞれ理論科学と実験科学になぞらえることが可能な気も。田中くんが知っているかどうかわからないけど、僕が読む本が物理学や生物学ばかりになってしまうのは、僕の〈批評〉への関心と関係があるかもしれない。
で、ちょっと長嶋語になってしまうのだが、〈批評性〉とはその作品と向かい合った瞬間に一気にバンッ!とフィジカルに享受されるものであって、屁理屈的思考や知識の学習を要請する〈観念性〉とは正反対の位置にある。たとえば田中くんの旧作(わかりやすいので例として出させてほしい)の《Grace》(二〇〇一)。永遠にバウンドし続けるバスケットボール。この作品を「理解」するにあたって、屁理屈的思考や知識の学習は必要ではない。その芸術性は見た瞬間にバンッ!と僕の脳内に焼きつけられる。かなり単純化して言ってしまえば、「この世界/宇宙の物理法則に従っている以上、ボールはバウンドし続けることができない」ということへの「言及」においてそれは〈作品〉なのではないか。それこそが僕が言う〈批評性〉なんだと思う。たとえバスケットボールというスポーツについて知らなくても、鑑賞者が球状の物体を扱ったことがある限り、この作品の芸術性は観念的思考を経ることなく享受されるだろう。…となると、美術作品における〈批評性〉とは、その成立条件のひとつとして、見る者がその「言及」の対象について考えるまでもなく知っている必要があるということか。「言及」の対象についてまず知ることや考えることが要請される場合、どうしても〈観念性〉を経ることになる。
これをふまえて、『ガンダム —来るべき未来のために—』展(大阪サントリーミュージアム天保山、二〇〇五)について考えてみよう。田中くんも知っているように、BT編集部からの依頼を受けて僕はこの展覧会のレビューを書いた。そこで僕は、出品されていた作品のほとんどがガンダムという対象についてどんなに好意的に解釈しても「評論的」でしかないと述べた。そのなかで唯一、田中くんが出品していた《アムロとアムロたち》(二〇〇五)は、ガンダムという対象について「批評的」であり、さらに、一五歳の少年を通して「人間」を、いや大げさに言えば「人類」を〈批評〉するものだった。本作を見る者はガンダムを知らなくてもいい。物心のついた人は誰もが、〈人間/人類〉のことを知っているのだから。だから僕は、あの場で田中くんに伝えたように、わざわざアムロの部屋をしつらえてそこで上映するのではなく、単に映像だけを見せたほうがいいような気がした。ところでひとつ疑問なのが、たしかにこの作品はガンダムという文脈を凌駕しているけど、その〈人間/人類〉への〈批評性〉を「理解」するには、その制作プロセスに関する観念的な知識が必要なのではないかということ。つまり、「レンズの前にマジックミラーをつけて少年たちを撮影した」という知識。それとも、会場にそうした説明がなかったことから察するに、やはりそれは必要ないと田中くんは考えているのかな? 個人的なことで悪いけど、これは前から聞きたかったことで。いずれにせよ、やはり問題は〈批評性〉か〈観念性〉か、だけにあるのではないらしい。
つまりこういうことだろうか。〈世界/宇宙〉にせよ、〈人間/人類〉にせよ、誰もが知っていることを前提にするなら、それは〈自律的作品〉である(と見かけ上思える)可能性がある。だけど、一部の人しか知らないことや、その作品を見るにあたって新たに知らなければいけない何かを前提にするなら、それは〈文脈依存型作品〉であり、対象に対する〈批評性〉を湛えていたとしても、その作品そのものは本質的に〈観念性〉をまとうことになる。というわけで、ここでやっと、田中くんの書いたこと——「捨象されうる文脈として唯一成立するのは奥村くんの言う〈世界/宇宙〉だけなのではないか」——に基本的には同意しようと思う。そしてまた、「作品として提示された情報のみによってそれがその作品内で、作者の存在を介さずとも成立している作品」という事態を僕なりの道筋で理解した。どうやら問題は二段重ねだ。まずはその作品における対象への「言及」が「批評的」かそうでないか(「評論的」とか「感想的」とかね)。次に、その対象が〈世界/宇宙〉などの誰もが知っている〈根元的事象〉のみ(厳密には「のみ」は不可能だとしても限りなくそれに近い)か〈非根元的事象〉か。〈自律的作品〉とは、〈根元的事象〉に対して「批評的」なもの。〈文脈依存型作品〉とは、ほかのすべての組み合わせ。なかでも最も屁理屈と〈観念性〉に塗り固められたガラクタ——「アートとか作品とかそういうものとは無関係の代物」——は、〈非根元的事象〉に対して「感想的」なものなのではないか。
そのうえで勝手に僕なりにまとめると、田中くんの不満とは、上記のような意味での〈自律的作品〉がミニマルにしか実現されえないこと、そしてそのミニマル性においてそれらが「似ている」ことにあるのではないだろうか。ふう、やっとここに到達した。長い道のりになってしまってごめん。これは難しい問題だなあ。というのも、〈ミニマムな普遍〉の例ならたくさん思い浮かぶけど、〈マキシマムな普遍〉の例はぜんぜん思い浮かばないから。もしかすると、ミニマルであることは〈普遍〉の成立条件なのかもしれない。たとえばこの宇宙の法則が美しい数式で表されるように。現時点で結論めいたことを言うなら、いや、これはかなりありきたりで暫時的な解決方法というか先送りの方法なのだけれど、一言で言えば、こうした問題意識を継続して持ち、それを作品制作に反映していく試みを続けること、いま僕たちにできるのはそれだけなのだろうか。常に〈ミニマムな普遍〉の限界を意識し、常に〈マキシマムな普遍〉の萌芽を探しながら、それらの間を往復しつつ制作していくこと。斎藤環は田中くんの作品制作が「形式の創出そのものを志向する」ものだと述べている(「境界線上の開拓者たち:田中功起」、BT/美術手帖 Vol. 57 No. 870、斎藤 2005)。一定の形式に留まることなく、作品の構造をそこからズラしていきながら、そのズレにおいて新たな形式の萌芽をつかまえていく試みは、〈ミニマムな普遍〉の限界と〈マキシマムな普遍〉の可能性を常に意識しながら制作を進めていく、ひとつの実践的なあり方なのかもしれない。
ちなみに、物理定数と呼ばれる数がある。たとえばプランク定数とか、真空中の光速とかの数字。ある本で読んだのだけど、これらが実は「定数」ではないという説がある。この宇宙の誕生から、少しずつ段階的にこれらの数が変化してきた可能性があるのだという。それを強引に美術作品に援用するなら、〈ミニマムな普遍〉の中身は変動しうるということになるんじゃないか。作品は人間によって作られるものなのだから、人為的にあるいは作者のアクションが引き起こした偶然によって、その変動はなされえるんじゃないか。現状の〈ミニマムな普遍〉に安住することなく(つまりは現状に疑いを挟み込み)それを少しずつあるいはダイナミックに変動させていくことにおいて、〈マキシマムな普遍〉に近いものが(一瞬の爆発だとしても)生成されるかもしれない。具体的に言うと、昨年の田中くんの個展『原因が結果』で、会場のひとつだったvoid+で展示されていた動物の作品などは、その意味不明さにおいて、ひとつの可能性を提示していたような気がする。なんだか田中くんの作品ばかり例に出してしまって申し訳ないけど。もっと範囲を広げるために、他のアーティストの作品についても今後は言及したい。ともあれ、田中くんが言うように、あらゆる前提を疑ってかからなければならないのは確かだと思う。もちろん今ここで僕が書いていることも含めて。
田中くんからのメールを読むまで、僕の脳内には〈ミニマムな普遍〉の限界と〈マキシマムな普遍〉の可能性についての問題意識はなかった。いや、うっすらとあったのだけど、明瞭ではなかった。どこかで、ミニマルにせざるをえないというあきらめ、というか〈ミニマムな普遍〉の美しさへの満足があった。だから、新たな問題意識を得ることができてとてもうれしい。それが僕の制作に反映されるまでは時間がかかるだろうけど。田中くんは、何か具体例として〈マキシマムな普遍〉が実現された作品が思い浮かんだりする? だとしたら教えてほしい。具体例ではなくても、「こんな感じ」というイメージでかまわないので。
それと、作者=「個人という文脈」への依存について。これは、〈ミニマムな普遍〉の背後に「結局のところ個人が見いだせる」ということ、そしてそれが「つまらなさ」につながっているのではないかという指摘だよね。これまた難しい。思うに、まず、〈ミニマムな普遍〉とは、ファインアートが原理的に志向するものである気がする。そして作者という個人の判断の恣意性についても、あらゆる〈作品〉が人間によって作り出されるものである以上、完全に払拭することはできない気がする。このことも、〈ミニマムな普遍〉と同様、ファインアートがファインアートである限り持たざるをえない限界なのかもしれない。ファインアートとは、ある対象を作者の意図において削っていき、そこからプリズミックに析出される純粋な要素についての探求だろうから。だからこそ僕たちはその限界を意識し、疑ってかからなければならない。具体的にどうすればいいか、それが一番の問題なのだけども。たとえばミニマルな手法で作り出されるマキシマルな作品について、マキシマルな手法で作り出されるミニマルな作品について、あるいはほかの組み合わせについて……と考えていくと、田中くんが言うように、絵画にひとつの可能性があるのは確かだと思う。何か具体的にアーティスト名や作品名を挙げられたら教えてほしい。それと、作品のありようから作者の判断へと遡行する道筋のブロックあるいは迷路化のための何らかのトリックを差し挟むことも、ひとつの可能性だろうか。でもそのトリック自体に「作者」の恣意性が宿っちゃうのだろうか。
ところで、いまこれを書いているのは二月二一日の深夜なんだけど、今日はこの近くにある画廊やアーティストのスタジオが密集した大山子地区(別名七九八地区)に行って来た。かなり大物(らしい)中国人アーティストたちのスタジオを訪問し、展覧会を見た。絵画、写真、彫刻、インスタレーション。どれもこれもまさに中国って感じ。それらの作品は、基本的にどれも〈文脈依存型作品〉だと言っていい。毛沢東への、共産主義への、中華人民共和国の文化や歴史への、天安門事件への、あまりにもわかりやすい記号性(たとえば血を象徴する滴り落ちる絵具とか、共産主義を象徴する赤とか)を利用した「言及」。それらを作品として成立させ(ているかに思わせ)るメカニズムは、欧米の文脈に乗っかるための戦略という点も含めて、なんとも単純でつまらないと思う。そこには疑いやズレがない。けれども同時に、おそらくはその単純さや作品の物理的なサイズそしてイメージの強烈さのせいだろうか、それらは見る者を力づくで納得させる「強度」を持っているようにも感じられる。「確かにこういうのもアリかもしれないな」と思ってしまったんだよね。何かが何かを象徴するという図式は、人間の脳が外界を認識するにあたっての道筋としておそらく自然なのだから、〈ミニマムな普遍〉において為されているようにそれらを可能な限り排除する態度は、なんていうか根本的に間違ってるのかもしれないな、と少し考えてしまった。いや、何が言いたかったのかというと、〈ミニマムな普遍〉と〈マキシマムな普遍〉について考えるときに、「強度」という概念を使うことで見えてくることがあるかも、ってこと。ちょっと今は具体的に思い浮かばないけど。ていうか「強度」って何だろう?
しかしあれだね、こうしてメールのやりとりをするのは、僕としてもうれしいし楽しい。「続きは頼む!」と言えるなんて、なんとも心強いし。田中くんはそろそろアルゼンチンかな? 北京とアルゼンチンでやりとりするなんて変な感じだなあ。世界のどこでも同じだけど違うけど同じだよね。とにかくお互い元気でいましょう。あ、今回はあまり書けなかったけど、「似ている」ことが本当に問題なのかについても、もう一度考えてみたいと思う。
……明けて二二日。北京観光から帰宅して推敲のあとメールを送ろうとしたら、地区全体が停電と来たもんだ。ふむ。……明けて二三日。電力復旧。送信。
書かれたものを集める(Collected Writings / A Book)
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