その7 田中功起(パリ)→奥村雄樹(ニューヨーク)/2006年5月16日
その7 田中功起(パリ)→奥村雄樹(ニューヨーク)/2006年5月16日
4/23/11
元気?
なんだか面と向かって話すまえに送ってしまおうと思って今、こうして書きはじめている。アルゼンチンのあとにポーランドの森のなかに行って、そしていまはひとまずパリで落ち着いている。ポフォチニックという、なんというかな、ほんとうになにもない田舎に二週間いたよ。店が一軒しかなくて、歩いてそこまで三〇分ぐらいかかる。森と湖と畑だけの村。ウォッカを毎日買い込んで飲み明かすしかない毎日。そんなところにずっといたら飽きてくるって思ったけどそれがそうでもなかった(最後にはもちろんもう十分だとは思ったけれども)。ぼくはそのゆっくりとした時間のなかで一時、アートや作品について考えることそのものを忘れられた気がする(そういう目的?のワークショップで)。なんだかいろんなことがどうでもいいように思えてくる。それがまさに、このワークショップを企画したPawel Althamerの意図で、若手アーティストを山奥に連れて行って、アートを忘れさせて、でもグループ展をポンピドーセンターでするっていうもの。ぼくも含めた若手アーティストは、なんかその欲望の狭間であえぐという。グループ展のための作品も考えなきゃならない一方で、アートとは無関係の企画をPawelが仕掛けてくる。たとえば夜の森を七時間も歩かされて、これが半分本当に遭難しかけて、とか。でも、確かに、月明かりに照らされた湖や森が驚くほどきれいで。身体が疲れているのに風景が輝いて見えてきたり。自分からはそんなところに行かないし、ワークショップって恥ずかしくて参加できなかったけど、ポンピドーっていう餌に釣られてこうして参加してみると、それがそのときの自分に意外と必要なことだったとあとで気づく。そうしたことがぼくにとってまさに必要な経験だったんだってね。
参加者にとってこんなにも機能するワークショップってあんまりないんじゃないかな。これはつくるためというよりは、いわば経験するため、そして忘れるためのワークショップだった。ちょっとニューエイジ的な怪しさもあったけど、そのアーティストの力というか誠実さというか、ぼくは参加してほんとうによかったと思っている。
現実に戻ろう。ぼくは思うんだけど、まっさらな目で作品を見ることなんてできない。なにかしらの与えられた情報がそれを邪魔してしまう。「強制的な〈観念性〉の追加。不必要な情報の付与」と奥村くんは書いていたけど、「付与」される情報によって作品の質が仮に変化するのならば、その作品がそもそもその程度のものであったとも言えないかな。そのとき見えていることがすべてだと思う。それがどんなに歪められていても、そこからしか話ははじまらない。「不必要な情報」であっても、それを知っているぼくがその作品を見ているぼくなんだしね。結末を聞かされたサスペンス映画を見るようなものかもしれないけど。
だけども奥村くんが書くように「理屈としてではなく作品それ自体のフィジカルなありかたのうちに、つまりは〈観念性〉を経ることなく〈工程〉が感知され得るならば、やはり〈工程〉は意味をもってくるのだろう」。ぼくもそう思う。なるほどポロックの絵画においてぼくが感じていたことは、いわばぼく自身がポロックの〈工程〉を想像的に遡行していたのかもしれないね。それは動いていないものなのに、動きを伴った迫力をもって見えていた。これが〈工程〉をフィジカルに感じているからこそ生まれたものなのか、線と形と色によって描かれた空間によるものなのかは、もはや判別できないけれども。
ひとつ気になったことがある。次のように奥村くんは書いていたよね。
「〈偶然〉を最も多く内包するのは、ようするにマキシマムな値を包含し得るのは、そこで起きていることをそのまま撮影した映像(=ドキュメント的映像)であり、ハリウッド的な特殊効果や合成やCG(=人工的映像)においては、いかに人間の作為が実現されるかが問題なのであって、むしろミニマムな値が志向されているではないかな」
ぼくもハリウッド的映像というものに対して、同様の意見を抱いていた時期もあるけど、今はちょっと違ってきている。じつはそうは単純ではないのかもしれない。たぶんハリウッドの特殊効果はマキシマムな値を抱え込んでいる。まあ最近のヴィデオ・アートががんばって取り込もうとしているような低予算・低レヴェルの「ハリウッド風」CGには辟易だけど。
奥村くんも知っているようにぼくは映画をよく見ている。とくにそのハリウッド映画になぜか惹かれている。あれはじつは「ドキュメンタリー映画」以上に偶然を映し込んでしまう可能性がある、とぼくは思っている。それもいわば人工的な方法によって。たとえば国会議事堂が爆発する映像があったとする。そこに合成されているものは現実の、たとえばミニチュアの爆発であり、その後に追加された効果、たとえば背景とかは複数の人間の手によるCGであり、ぼくたちはそれを見たときにどこまでがCGであり、どこからがミニュチュアによるものか、あるいは後から付け足した背景なのかがじつはほとんど見分けがつかない。言ってみればひとつの場面が現実の寄せ集めでできている。時にそれは現実以上に現実感をもつだろう。自然に相対する人工的な現実、しかしそこに宿る人間の目にはあたり前に感じられる自然な現実感。これはまさにある種の絵画がなしうる、自然に拮抗する表現みたいなことに近いかもしれない。映画を見ているとき、ぼくたちにはそれが合成映像なのか現実の、自然の風景なのか、ついには区別がつかなくなる。それがいまのハリウッド映画なんじゃないだろうか。ここまでは余談。
奥村くんが繰り返し書いているように、〈偶然〉ということをいかに作品に取り込むかということが〈工程〉においてはいちばん重要なんだろう。その契機をいかに捕まえるかに、作品がマキシマムな値を獲得するかどうかが賭けられているのかもしれない。たとえばひとつの完成された作品を美術館に展示するという最終局面においてさえも、つまりもはやなにもつけ加えたり、一見なにも〈偶然〉の要素を呼び込みえないように思える瞬間でさえも、ぼくらは〈偶然〉を捕まえる契機に変えるべきなのだ。
ぼくが書いていた、制作途中でなにかしらの〈工程〉を飛ばしてしまうという感覚はもしかするとこの〈偶然〉をどうあつかうかということに関係するのかもしれない。〈偶然〉のすべてを招き入れて、その複雑さのなかで制作をしていると収拾がつかなくなる。そこになんのかたちも与えられなかったら、いつまでたってもなにもできあがらない。手っ取り早い方法は、余計なものを削除して整理すること。たぶんアーティストはだれしもそうして作品にしているんだと思う。問題は〈工程〉を飛ばすことではなく、整理の仕方にあるかもしれない。つまりその整理の仕方がそれでよかったのかどうか、作品ができあがった段階でも思い悩むことがある。整理の仕方が十分に練られていないときもある。それによって、そのアイディアが持っていた〈偶然〉を招き入れる、いや〈偶然〉を偶然のままに作品のなかに保存できた可能性が消えてしまう。作品は、とはいえ、それでも成立しているように見える。そう〈自律型作品〉が〈つまらない普遍〉を獲得した瞬間だ。要素を簡潔に整理する手際は、おそらく多くの作り手が到達しうるもっとも安易な近道かもしれない。
ここでいままでの議論がまた一周して元に戻る可能性もあるけど、文脈依存型の作品について、少し考えてみたい。
ピエール・ユイグ(Pierre Huyghe)の個展をパリ市立近代美術館でいまやっているんだけど、これがすごくよかった。リヨン・ビエンナーレでも見た《This is not a time for dreaming》(二〇〇四)というヴィデオ作品。一九六五年にル・コルビュジエが建てたハーバード大学のthe Carpenter Center for the Visual Artsという場所があるそうだけど、そのコミッションワークとしてこれは制作されている。人形オペラ(?)がベースになっていて、そのなかでふたつの物語が進行している。ル・コルビュジエがその建築を構想する過程とピエール・ユイグがこのプロジェクトを現実化する過程。両者の制作プロセスにおける苦悩や葛藤が物語として交差する。加えて、単なる人形劇というだけでなく、映像としてのさまざまな工夫がなされている。コマ撮りを使ったアニメーションをリアルに操られている人形の動きにかぶせてみたり、舞台裏を同時に見せてしまうメタ的な視点にくわえて、さらにその舞台を見ている観客の視点を導入してみるとか……。台詞は基本的になく、音楽と人形の動きだけでストーリーが語られていく。構造は複雑なんだけど、そこにあるストーリーは、作り手の苦悩とプロジェクトの実現に向けての努力というわかりやすい物語であり、背景としての文脈を知っていても知らなくても、十分に楽しめる内容になっている(人形劇だしね)。たぶんそれは、文脈に依存するという危険を冒し、それによって〈偶然〉というか「カオス」を導きいれ、なおかつぎりぎり作品内情報だけでも理解できるように工夫され、その意味では最後には〈普遍〉的な地点さえも獲得したものかもしれない。これはすごいなあと思う。
そういえばジェニファー・アローラとギレルモ・カルザディラ(Jennifer Allora & Guillermo Calzadilla)というふたり組のアーティストがいるけど、彼らの作品も、政治的な文脈に依存しつつも、その行為自体が単純にユーモラスでもあり、両義的で理解しやすい構造になっている。最近よく展覧会で見かけるから奥村くんもどこかで見ているんじゃないかな。来月、Palais de Tokyoで彼らの個展があるからまたこの話はのちほど。
まだ、しかし旅行から帰ってきて二週間ぐらいで、なんだか頭が回らない。都会の時間帯にからだが合わせられない状態。この前は生肉にあたって三日ぐらい寝こんでしまったし。とにかく久しぶりにニューヨークで会えるのを楽しみです。ちなみに僕はビールならブルックリン・ラガーの方が好きかなあ。
see you very soon!
書かれたものを集める(Collected Writings / A Book)
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